礼拝
渡部 信
常盤台バプテスト教会 2025.12.28 主日礼拝 「弟子から使徒へ」渡部 信牧師【マタイによる福音書 17章14~20節】(新共同訳 新約P.33)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 ヨハネによる福音書 14章12~14節 司式者
祈祷 司式者
賛美 教団9番「力の主をほめたたまつれ」
主の祈り
献金感謝
聖書 マタイによる福音書 17章14~20節
特別賛美 ”主を仰ぎみれば” 聖歌隊ユニット
宣教 「弟子から使徒へ」 渡部 信牧師
祈祷
賛美 新生662番「行きて伝えよ」
頌栄 新生668番「みさかえあれ(A)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 今日は、「弟子から使徒へ」と題して御言葉を学びます。今日の聖書個所の前に、イエスが山に登られたとき、その衣が光り輝き、真っ白な姿になられ、その脇には預言者モーセとエリヤが現われた記事が出て来ます。それを見た弟子たちは、恐れおののき、感動して、「先生」ここに3つのお堂を建てましょう、と提案しました。この箇所は、イエスは、私と同じ人間ですが、神の子として来られ、罪の贖いの苦しみを受けられましたが、死の中から再び甦ることのできる神の子であったことを証明しているのです。
この神の力を持ったイエスが、先ほどの聖なる山から下ってきますと、山のふもとでは、待っていた残りの弟子たちがある事件に巻き込まれていました。それはが悪霊にとりつかれている息子の父親が、その病をイエス様に治して頂きたいと願い、イエスを待っていたのです。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。弟子たちのところに連れてきましたが、治すことができませんでした。」イエスは「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに連れてきなさい」とため息をされました。山のふもとに残されたお弟子たちには、一生懸命、悪霊を追い出そうとしても追い出せなかったからです。マルコ福音書では、弟子たちは律法学者たちとそのことで議論を交わしていたと記されています。そして父親も「もしできれば、治してください」とイエスにお願いをするものですから、イエス様は「もし、できればと言うのか」とお叱りになり、「信じる者には何でもできる」と告げられました。父親は、自らの不信仰を悔い改め「信じます。信仰のない私をお助けください。」と懇願したのでした。ここに私たちの本当の信仰が問われるのです。
イエスは、もう一度「その子供を連れてきなさい」と言い、イエスが悪霊を追い出すと、その子供は口がきけない、暴れまわるてんかんの病気が嘘のように治り、完全に癒され、イエスは神の力を発揮されたのです。そして弟子たちは、後から密かににイエスに尋ねました。「どうして私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」。イエスは言われました。「あなたがたの信仰が薄いからだ」「もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって「ここからあそこに移れ」と命じても、その通りになるのです。あなたがたにできないことはない。マルコ福音書では「この種のものは、祈りによらなければ決しておいだすことはできないのだ」とも書かれています。
私たちは神の子であり、人の子でもあったイエスも、神に祈らなければ、そのような神の力は発揮できないことを知らなければなりません。信じるとは頭ではなく、心から信じることです。イエスは各地を伝道しながら、いつも一人で祈る場所を求め、父なる神への信仰を固く信じ、神には何でもおできになるという信仰をご自分で持っておられました。弟子たちはそれを学ばなければ、いつまで経っても同じままです。旧約聖書の歴代下16章9節には「主の目はあまねく全地を行きめぐり自分に向かって常に心を全うする者のために力をあらわされる」と書かれているではありませんか。
イエスの弟子たちは、イエスの十字架の死と復活後に、イエスが現れたとき、はっきりとイエスが神の子であると信じることができました。その後、弟子たちはイエス様の御言葉通りに祈っておりますと、神の霊の力を得て、イエスに驚いて観ていた弟子から、祈りによって神の力に満たされた新しい使徒として変えられ、福音の宣教者、伝道する者へと成長して行ったのです。