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礼拝
森崇

常盤台バプテスト教会 2025.6.1 主日礼拝 ヨハネ福音書講解④「来て、見よ。キリストを」森崇牧師【ヨハネによる福音書 1章43~51節】(新共同訳 新約P.165)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    ローマの信徒への手紙 1章3b~6節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生10番「主のみ名により」
主の祈り
献金感謝
主の晩餐式 「ひとつの聖霊」
聖書    ヨハネによる福音書 1章43~51節
宣教    ヨハネ福音書講解④「来て、見よ。キリストを」  森 崇牧師
祈祷
賛美    新生205番「まぶねの中に」
頌栄    新生673番「救い主 み子と」 
祝祷
後奏
宣教概要
 「来て、見なさい」とは実際に行動し、確かめて見なさいとの呼びかけです。フィリポは「私に従いなさい」との主の招きによりイエスに従う弟子となりました。フィリポは救われた喜びを持ってナタナエルに会い、言います。「私たちはモーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」律法と預言者とは旧約聖書のことです。「神の約束された人が来られた」「み言葉の成就がこの人だ」とフィリポは告白します。しかし、彼は「ナザレから何の良いものが出ようか」と答えました。彼は主イエスに「まことのイスラエル人だ」と呼ばせるほどの信仰の持ち主でした。いちじくの木の下にいた―すなわち幸いや平和について学ぶものでした。その彼は、聖書には救い主がナザレから出ることは書かれていないと研究し、知っていました。フィリポはそこで彼と言い争うことはせず、「来て、見なさい」と呼びかけます。それは彼の知識や経験を超えたところへの招きの言葉であり、彼への挑戦の言葉でした。主イエスは彼がどのように生き、誠実に歩んできたのかを見抜き、言います。「見よ、まことの神の民(イスラエル)。この人には偽りがない」主イエスは彼のことを既にご存じだったのです。ナタナエルはすべてをご存じのイエスに答えます。「ラビ(先生)、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」
ヨハネ福音書1章において、「見よ/見る」は10回以上用いられ、鍵となる言葉です。これは肉眼で見るのみならず、霊的な意味で、心の目を持って見ることを意味します。「見よ」とは主イエスが神でありながら人となって受肉したその栄光を見る事(14)、罪を取り除く神の小羊を心の目で確認すること(29)、聖霊が主イエスと共にあることを見る事(32)です。「来て、見なさい」とはナタナエルにとって自分の枠(思考/思想/経験)を超えて、「来て、見よ。キリストを」との呼びかけでした。そこに主イエスとの出会いがあり、信仰が生まれます。主イエスは彼に対し、「それよりももっと大きなことをあなたは見るであろう」と告げ、「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と告げました。「よくよく言っておく」とは「まことに誠に汝らに告ぐ」(文語訳)であり、「アーメン、アーメン私はあなたがたに言う」との主イエスが大切な事を言われるときの定型句です。かつてヤコブが命からがら逃げた旅の始まりに石を枕にしていた時、天から梯子が降り、天使たちが昇り降りしました(創28:12)この時に示された祝福の約束、神の守りの約束はイエス・キリストにおいて成就し、あなたがたはそれを見ることになると主イエスは宣言されました。「天が開け」とは聖書では「神の顕現と幻が与えられること」(エゼ1:1、使徒7:56)、「聖霊が注がれること」(マタ3:16)「祝福」(使徒10:11)の象徴です。「来て見よ」との呼びかけに答え、主イエスと出会い、また主イエスを拝す信仰が与えられた者には、まことに誠にもっと大いなること、祝福を見ると呼びかけられています。
私たちはどうでしょうか。自分の知恵や経験に固執して、そこに留まっていないでしょうか。教会生活では私たちが献げる献金は十一献金(収入の十分の一を自分自身として捧げる)ことが奨励されています。「十分の一は主のものである。それは主の聖なるものとなる」(レビ27:30) しかし、私たちは理由を付けて無理だと諦めていないでしょうか。月約献金や十一献金に励むことは、神が御子イエスを与えた十全に対して、応答する私たちの一(ひとつ)です。「天が開く」とは新・旧約聖書の境にあるマラキ書において示されます。「十分の一の献げ物をすべて貯蔵庫に運び入れ、私の家に食物があるようにせよ。これによって私を試してみよ—万軍の主は言われる。必ず、私はあなたがたのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」(3:10)「来て、見よ。キリストを」その呼びかけを頂きつつ、自らの枠を飛び越えて神のなさる大いなる業を信じ仰ぐものと共になろうではありませんか。
          
            [聖書:聖書協会共同訳]