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礼拝
森崇

常盤台バプテスト教会 2025.7.27 主日礼拝 ヨハネ福音書講解⑩「いのちの種まきとめぐみの刈り入れ ー変えられた喜びの人生ー」森崇牧師【ヨハネによる福音書 4章27~42節】(新共同訳 新約P.170)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    マルコによる福音書 4章3~8,14節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生4番「来りて歌え」
主の祈り
献金感謝
聖書    ヨハネによる福音書 4章27~42節
特別賛美  ”愛の神 恵みの主よ”
宣教    ヨハネ福音書講解⑩「いのちの種まきとめぐみの刈り入れ ー変えられた喜びの人生ー」
  森 崇牧師
祈祷
賛美    新生362番「主のみ名を伝えん ハレルヤ」
頌栄    新生674番「父 み子 聖霊の」
祝祷
後奏
宣教概要
 主イエス・キリストとの出会いは、本当の喜びある人生へと変えられます。サマリアの女は主イエスとの出会いを通して、満たされない愛の渇きから、尽きぬ永遠の命にいたる水を得ました。「女は水がめをそこに置いたまま町に行った」(28)とは、この女性が魂を活かす真の生ける水に出会い、変えられた人生を歩んだことを示しています。主に望みを置く者は必ず変えられます。湧き水は小川となり、いのちの水を流しその地を潤すように、この女はサマリアの人々に自分に起きた救いの喜びを語り伝えました。「さぁ見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この人がメシアかもしれません」(29,39)この言葉を契機にして、多くの人々がイエスの元にやってきます。それはいのちの種まきでした。彼女はもはや人を恐れて隠れて歩む人生を歩みません。自分の人生に起きた悲しみや痛みをすべて知っていてくださる方がおられると、その福音の種を人々に蒔いたのです。それは自分自身の人生に起きた出来事が、まさに意味あることとして受け入れられ、変わり、その自分自身の人生を証しとして語っていきました。一人の人が救われる出来事は、その救いの喜びがその地方一帯に、もたらされることを意味していました。救いの体験は人々に証しすることで真実ないのちとなります。

 救い、とは主イエスとの出会いです。主によって知られ、また肉体の命だけではなく、霊的ないのちが満たされるように導いて下さる主イエスとの出会いです。主イエスとの出会いは人を霊と真実をもった礼拝者へと変えてくださいます(23-24)。

 女が町に行き、いのちの種まきをしている間に、イエスと弟子たちとの対話があります(31-38)。ヨハネ福音書では、弟子とはイエスに従う者であり、主を信じる私たち一人ひとりです。弟子たちは食事を買いに町に行っていました(8)が、イエスは肉体の命を満たす食事だけでなく、霊の体を強める食べ物について言及します。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34)主イエスは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタ4;4)と言われましたが、まさに神の御心を求め、神の御心に生きることが霊の体を強めます。

 「御心を行い、その業を成し遂げる」とは女の福音宣教とそこで与えられた霊的祝福、すなわちめぐみの刈り入れを意味していました。「しかし、私は言っておく。目をあげて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして蒔く人も刈る人も共に喜ぶのである」(36)

 「目をあげて見よ」とは弟子たちの眼前に来ている人々の霊的な祝福を刈り入れて信仰に導き、また主イエスに従う者として共に導くことです。そのために常盤台教会は存在します。私たちの人生にこのみ言葉を当てはめる時、私たちは出て行って救いの体験を証しすること=いのちの種を蒔くこと、また自分の人生に与えられているフィールド(場)において霊的な恵みの実りを借り入れる事、主イエスを慕い求める礼拝において、その信仰を深める事が重要です。  

 女の言葉を受け入れて信じた人々は実際に主イエスの元に留まり、自覚的な信仰を持って告白します。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからである」(42)

 「本当に」とは「真実に(ギ語・アレートス)」です。ヨハネ福音書においてはしっかりと確かめられるものとして「イエスが神から遣わされた救い主である」という文脈で多く用いられます(6:14,7:26,7:40,8:31,17:8)。そうです。いのちの種まきとめぐみの刈り入れは真実なものとして「主はまことに救い主」という希望が顕されるのです。この世に臆してはなりません。ただ私たちに与えられている主の業をこの世で共に顕して参りましょう。