礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2025.9.14 主日礼拝 ヨハネ福音書講解⑭「示そう、真実の力ある証を」森崇牧師【ヨハネによる福音書 5章31~47節】(新共同訳 新約P.173~174)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
(第二礼拝前奏 「大波の様に」ホザンナベルクワイヤ)
招詞 マルコによる福音書 10章13~16節 司式者
祈祷 司式者
賛美 こどもさんびか2番「きょうはひかりが」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 5章31~47節
特別賛美 「ここに愛が」聖歌隊・グレースアンサンブル・ジョイフルクワイヤ
「かわらないやくそく」CS幼稚科・小学科・中高科
宣教 ヨハネ福音書講解⑭「示そう、真実の力ある証を」 森 崇牧師
祈祷
賛美 こどもさんびか130番「いつくしみふかい」
頌栄 新生33番「輝け主の栄光」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- キリスト教会において「証しをお願いします」と頼まれた時、求められているのは単なる出来事の報告や自分自身の感情や考えではありません。「証し」とはイエス・キリストそのものです。自分の人生に神の力や導きがどのように働きかけたのか/またはあったのか、主は生きておられることを自分の人生を通して人々に告げることが証しです。「神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。この方は、すべての人のための贖いとしてご自身を献げられました。これは、定められた時になされた証しです」(Ⅰテモ2:4-6)
昔も今も、聖書には永遠の命があると信じられ、研究されていました。しかし、聖書は主イエスについて証しするものでした(39,46-47)ユダヤ人たちはモーセが書いた律法に従い、信仰を全うしている自負がありましたが、実のところ彼らには「神への愛がなく」(42)、父なる神から遣わされてきた主イエスを受け入れることがなく(43)、神さまの栄光や誉を求めようとはしない人々でした(44)。モーセはかつて「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」(申18:15)と後の世代に預言しました。しかし、より偉大な神の権威を持ち、神から遣わされ、神の業を全うする主イエスを受け入れることはありませんでした。この主イエスにこそ、永遠の命があります(17:3)。聖書がイエスについて証しをしている以上、私たちの信仰の姿勢は明確です。それは聖書の言葉を握りしめること/神さまの言葉を心の内にとどめおくことです。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます」(Ⅱテモ3:15)
イエスさまは三者によって完全に証しされます。➀父なる神:「父がわたしについて証しをしてくださる」(37-38)。イエスは父なる神によって遣わされた神の独り子です。この方を信じる時、父なる神をも信じ仰ぎます。父なる神は「光あれ」(創1:3)のみ言葉により真の「光」(1:5)としてイエスをキリスト(救い主)として遣わされました。神の創造の業、めぐみの出来事により神は主イエスを示されます。②聖霊なる神: 「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう」(15:26)聖霊なる神は主イエスによって派遣され、主イエスを信じる弟子たちにおいて働き、主イエスの十字架と復活を証しします。聖霊によって誕生したキリストの群れ=教会により、主イエスを証しします。③洗礼者(バプテスマ)のヨハネ:「…神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである」(1:6-7)彼は神から遣わされた者としていのちの光である主イエスを証しするものです。しかし、この「彼」こそは「私たち一人ひとり」を現わしています。それは神により遣わされた者として、「すべての人が彼(=私たち)によって信じる者となるため」なのです。イエスさまは父なる神の創造の業により、また教会の宣教と繋がりにより、また個人の証しにより完全に顕され、示されるのです。
イエスさまをどのように証しするか、それは決められた定型があるわけではありません。キリスト教会は使徒信条などを用いた信仰を宣言致しましたが、バプテスト教会では聖書を読み、どのように信じ告白するかは自由です。ただ一つ守るべきルールは聖霊による一人ひとりの信仰告白を侮辱しないことです(マルコ3:28-29)。「これは決められた時になされた証しです」という第一テモテ2:5-6は初代教会の典礼文に由来されると考えられています。しかし、今の時代の主告白として、過去私たちの贖いとなられた主イエスだけでなく、私たちはどのように生きておられる主を、そしてやがて来られる主を告白することが出来るのでしょうか。