礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2025.9.28 主日礼拝 ヨハネ福音書講解⑯「これは神業だ!!!」森崇牧師【ヨハネによる福音書 6章16~33節】(新共同訳 新約P.174~175)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 イザヤ書 55章1~3節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生16番「み栄えあれ 愛の神」
主の祈り
献金感謝
特別賛美 新生73番「善き力にわれ囲まれ」
聖書 ヨハネによる福音書 6章16~33節
宣教 ヨハネ福音書講解⑯「これは神業だ!!!」 森 崇牧師
祈祷
賛美 新生660番「力と光と恵みの神」
頌栄 新生674番「父 み子 聖霊の」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 「神業」を見たことはありますか。この世では人間離れした業を神業と呼ぶことがあります。あるいはYoutubeなどのすごい回の事を神回と呼ぶことがあります。それとは一線を画し、神以外には起こしようがない、圧倒的な神の力による奇跡を指して神業と言います。
聖書は神業に溢れています。天地創造、ノアの箱舟、モーセがエジプトの海を割ってイスラエルの民を救った出来事、40年にわたり天からうずらとマナを備えた荒野の旅路の守り、ヨシュアが激流のヨルダン川を堰き止めて約束の地に入った出来事等など、様々な神業があります。私たちの心に残る聖書の神業は何でしょうか。聖書を読むとき、私たちは神業に出会い、この物語を通して私たちに働きかける神さまに気がつくことが出来るのです。聖書は神の霊感によって書かれた完全な神業だと信じます!!!
生ける神の子、イエス・キリストも数々の神業をなされ(た)る方です。ヨハネ福音書6章では五つのパンと二匹の魚を少年が捧げ、これを用いた5000人の給食がなされました。残ったパンくずで12の籠が一杯になったとは、イエスさまの奇跡はこの出来事を超えてさらに完全(完全数12)に満ちていくことを示していました。しかし人々はこの出来事を正しく理解できませんでした。イエスをこの世の飢えや貧困を無くし治める地上の王として連れて行こうとしましたが、イエスさまはそれを知って山に退かれました(6:15)。この神業の本当の意味は、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(11)とあるように、「命のパン」であるイエスご自身を与える(35)ことです。人間にとって最も大いなる神業はイエスの十字架の赦しと贖いです。5000人の給食は主の晩餐の予型でした。分け与えられたパンは十字架上で裂かれるイエスさまの体です。神のパンを求める人にはすべての人に分け与えられます。イエスさまは言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子(イエス)があなたがたに与える食べ物である」(27)
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29)との「神の業」は単数系です(※28節は複数)。神より遣わされてきた主イエスを受け入れて信じる、それが唯一の神の業です。神の業を数多く行うことで神さまから認めてもらうのではなく、ただ唯一の生ける神の子を信じる信仰が重要です。ユダヤ人たちはかつて荒れ野を彷徨ったとき、モーセを通して天からのパンを食べたと主張します。イエスさまはこれに対して、モーセではなく、「わたしの父が天からまことのパンをお与えになった」(32)と告げます。すなわち、かつてイスラエルが経験した日ごとの食事は人によるものではなく、神によるものであり、神業であったと告げています。私たちは朝昼夜頂く食事は神業であると信じることが出来るでしょうか。
私たちの日常には神業が顕れています。しかし、そのことに気づかずに、主イエスの存在を勘違いしてしまう存在です。この「五千人のパン」と「イエスは命のパン」の話の間には「湖の上を歩く」出来事があります。夕方、弟子たちはガリラヤ湖を船で渡ろうとします。夜すでに暗くなっている間、湖は強い風が吹き、荒れ始めます。この命の危機ともいえる暴風のさなか、イエスは荒れた湖の上を歩くことが出来る神業を示し、「私だ、恐れることはない」(20,ギ語:エゴーエイミ)と告げます。それは神名の啓示でした。かつてイスラエルの民をエジプトから救うためにモーセに燃える柴の中で示された「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出3:14)という名が、この時、救い主イエスによって示されます。同じように、主イエスは私たちの人生の嵐の只中に会って、嵐を治め行くべき道に進ませるために神業を持って伴われます。誰の目にもわかるほどの大きな奇跡があります。しかし、むしろ私たちの人生の嵐のうちにあって「私だ、恐れるな」と呼びかけてくださる主イエスと共に歩むものとなりましょう。