礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2026.8.23 主日礼拝 ヨハネ福音書講解(53)「死の先は、墓ではない」友納靖史牧師【ヨハネによる福音書 19章28~42節】(新共同訳 新約P.208)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 詩編 48篇2~4節、13~15節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生114番「わが霊よ 主をほめよ」1、2、3節
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 19章28~42節
特別賛美 ”きみもそこにいたのか” (聖歌400番)
宣教 ヨハネ福音書講解(53)「死の先は、墓ではない」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生550番「ひとたびは死にし身も」
頌栄 新生672番「ものみなたたえよ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- イエス・キリストの墓はありません。ですから、墓参をすることはありません。主がすべての者の罪を代わりに負い死を迎えた十字架の置かれた所は「ゴルゴダ(どくろの場所)」と呼ばれ、罪人が死を迎える刑場・墓場として恐れられていました。ところが主はそこで「成し遂げられた」と言い残し、息を引き取られたのです。その少し前、「渇く」と言われた意味を神学者は様々に解釈しましたが、次の注解は真意を突いているようです。「自分自身に与えらえられた使命をすべて成し遂げ、もはや地上で果たすべきことが自分の内側には何も残っていないことを示している」(宮平望「ヨハネによる福音書 私訳と解説」)。そうです、「《神によって》成し遂げられた」とは、天におられる父なる神の導きに従って「完成する」「目的を達成する」ことができた感謝に溢れた言葉です。このとき主は十字架上で、確かに肉体的には言い尽くせない苦悩の中にありました。しかし心と魂は、父なる神の使命を果たされた平安に満ちておられたのです。神と等しい者でありながら、ご自分を無にして僕しもべの身分になり、人間と同じ者として生まれて、神の使命を最後まで果たされた、この達成感に満ちた一言。主が地上での生涯を終える時に味わわれたこの思いは、正に主を信じる者たちにも、神に与えられた生涯を終える時、同じ喜びに満ち溢れることが許されていること、何と幸いでしょうか。
主イエスの死後、主の遺体を引き取ることをピラトに願い出た二人の人がいました。それは主の弟子でありながら自らの地位と立場上、それまで公にしていなかったアリマタヤのヨセフ。そしてファリサイ派で議員で、かつてある夜、こっそり主のもとを訪れ、対話し人生を変えられたニコデモ。主の十字架での死と主が神の業を完成された出来事を目の当たりにして、人目や当時の政治宗教的圧力を恐れる以上に彼らの信仰と勇気が勝り、彼らは公に行動する者へと変えられたこと(信仰の成長〈完成〉)が証しされています。この後、ヨセフが自らのために用意していた真新しい墓を主のために用いますが、葬って三日後、主は予告通りに復活されました。そしてその墓は殻となり、遂には誰の墓として使われることなく今に至っています。なぜなら主イエスはその後、天へ昇られ、今も再臨の時まで天におられ、私たちの罪を父なる神の右に座して執り成し続けておられるからです。私たちがなすべきこと、それは墓を訪ねるのでなく、天を見上げて多くの人々に永遠の故郷を指し示すことです。
戦国・江戸時代、政教一致と武力支配を容認したカトリック信仰に不安を抱いた支配者による禁教令は宗門改、五人組を通して個々の信仰を見張り密告し合う社会構造と檀家制度を生み出す起点となりました。特に、先祖供養とお墓を守る制度が、現在変化しつつあります。多くの日本人は、いかに立派な墓を造って守り、供養を繰り返すことが先祖への感謝の証しであるかのように信じさせられてきました。かつてキリシタンたちが信仰に入った理由の一つに、当時身分にかかわらず神の前にすべての人は等しく、信じる者を神は死を迎えたら真の故郷、天にあるパライソ(楽園)へ向かえてくださる教えにあります。迫害され、墓を作ることを許されなくても彼らは平安に満ちていました。なぜなら彼らにとって死の終着点は墓ではく、その先にある希望が与えられていたからです。
私たちの人生の終着点、それはお墓ではありません。死の先に永遠の命があることを先立って示された主イエスに目を注ぎ、神に託されたそれぞれの人生と使命を完成(完了)するために生きる歩み続けましょう。あの使徒パウロが獄に捕らえられ死を目前にした思いを愛弟子テモテに宛てた告白のように…。
「世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」
(テモ二4:6-8)。