礼拝
石原誠
常盤台バプテスト教会 2026.9.13 主日礼拝 「『きょうかい』を越えていく神」 神学生 石原誠【創世記 16章1~13節】(新共同訳 旧約P.20~21)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 ルカによる福音書 15章4~7節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生585番「救いのぬし主よ」
主の祈り
献金感謝
信仰告白(第二礼拝)
聖書 創世記 16章1~13節
特別賛美 "ワワワいっしょに"
宣教 「『きょうかい』を越えていく神」 神学生 石原誠
祈祷
賛美 新聖歌285番「心くじけて」
頌栄 新生672番「ものみなたたえよ」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 「西南学院大学神学部の神学生、石原誠です」と言えるのも、今月が最後となりました。9月24日の卒業・修了式で一区切りがつきます。常盤台教会の皆様に送り出していただき、これまでお祈りとお支えをいただきましたことを心から感謝申し上げます。現在は、これからの新たな歩みに向けて備え、祈っております。どうぞその歩みのためにも、引き続きお祈りいただけますと幸いです。
さて、本日の宣教題は「『きょうかい』を越えていく神」といたしました。あえて平仮名にしたのは、「神さまは『境界』を越えて愛を届けてくださるお方である」ということと、「私自身が『教会』の枠を越えて神さまに仕えたい」という、二つのメッセージを込めたかったからです。
本日の聖書箇所である創世記16章1節~13節では、アブラムとサライ、そしてハガルの人間模様と、絶望したハガルに対して主の御使いが能動的に積極的に関わっていく姿が描かれます。そして最終的にハガルは「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と神による救いの実感を得て、信仰を告白します。
本日特に見つめたいのは、ハガルに対する御使いの関わりです。ハガルは恐らく12章の「エジプト滞在」時に連れて来られた奴隷でした。アブラムの共同体の中では「異邦人・外国人」であり「奴隷」。さらに当時の父権社会における「女性」でもあり、三重の意味で、最も弱く小さな立場に置かれていたのです。それゆえに彼女は、跡継ぎを作るための「代理母」として利用されます。しかし計画外の事態から人間関係がこじれ、その犠牲となったハガルは、身籠ったまま過酷な荒野へと逃げ出しました。
その荒野で、彼女は主の御使いと出会います。ここでの「御使い」は主なる神ご自身の現われです。7節の「出会って」という言葉には、偶然ではなく、絶望のどん底にいるハガルを捜し出して「見つけた!」という積極的なニュアンスが含まれています。また9、10、11節で「主の御使いは言った」「更に言った」「また言った」と繰り返されることからも、何が何でも救い出そうとする強い意志が伝わってきます。
女主人サライが一度も口にしなかった「ハガル」という名前を、御使いははっきりと呼びかけます。人間社会の「境界」によって蔑まれていた彼女の「人格」と「尊厳」を取り戻そうとする、これこそが「神のみ心」であり、「神の愛の実践」です。
そして9節の「従順に仕えなさい」という命令。原典の「עָנָה(アーナー)」という単語からは、二つの事が読み取れます。一つは、状況に支配される『客体』から、自らの意志で状態を決定する『主体』になるという「尊厳の回復」。もう一つは、自分の力が及ばない所に働く神の圧倒的な力にすべてを委ねる「柔和」です。
続く祝福と恵みの約束は、中心人物(アブラムやマリア)に告げられたものと同等の内容が、周縁に追いやられた女奴隷ハガルにも述べられています。
主なる神の愛には一切の境界がなく、個人や社会が作りだした境界も越えて「愛の実践」を遂行されるのです。この姿は、一匹の失われた羊を徹底的に探し出す羊飼い(ルカ15:1-7)と完全に重なります。
私は間もなく本格的に牧会者としての歩みを始めますが、この「弱く小さくされた一匹を探し出すイエスさま」こそ、私の目指す牧者像です。また同時に私自身も、イエスさまに見つけ出され、肩に担いでいただいた「一匹の羊」であるという恵みを、決して忘れず感謝し続ける者でありたいと願っています。
神の愛は、教会の外にも溢れ、すべての人に分け隔てなく降り注がれています。私たちにとって大切なことは、その愛をただ受け取るだけで終わるのか、それともその愛を共に育み、深い関係を築いていく応答をするのかということです。
私たちは境界線を越えていく神に倣い、「尊厳を奪う境界線」を越えて、小さく弱くされている人々に「キリストの愛」を届ける者でありたいと願います。同時に、私たち自身がいとも簡単に小さく弱くされてしまう脆い存在であることも覚えて、十字架と復活のイエスさまに依り頼み続けたいと願うのです。