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礼拝
友納 靖史

常盤台バプテスト教会  2021.7.18主日礼拝 『悲嘆から希望の民へ⑦「真の医者を見つけよう」』友納靖史 牧師 エレミヤ書8章8~13節 (新共同訳 旧約P.1191)


礼拝出席カード


音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏           奏楽者
招詞           司式者
祈祷           司式者
賛美  105番 くしき主の光 1、2節 
聖書  エレミヤ書8章8~13節  
特別賛美演奏  "人生の海のあらしに"      奏楽者
宣教  悲嘆から希望の民へ⑦「真の医者を見つけよう」 牧師 友納靖史
祈祷
賛美  458番 いさおなきわれを(A) 1、2、3、4節 
献金感謝         司式者
祝祷
後奏
宣教概要
使徒パウロは「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない・・・ (ロマ3:10-12口語)」と詩編53篇(2-4)を引用し、課題を抱えるローマの信徒達へ書き送りました。これはエレミヤが南ユダ王国で「我々は賢者で、主の律法を持っている(エレ8:8)」と自負する祭司やリーダーたちを鋭く批判した姿と重ね、パウロ自身の悔い改めの告白です。神の目に「義人はひとりもいない」との信仰に立脚して生きる時、私たちは神と人との前に「謙虚」とされ「健やか」にされます。
 預言者エレミヤは、「神の民」であることに安住する人々に辛辣な神の言葉を伝え、自らの真の姿に気づくよう訴えました。「彼らは、おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに『平和、平和(シャローム)』と言う」、更に「ギレアドに乳香がないというのか、そこには医者がいないのか。なぜ、娘なるわが民の傷はいえないのか(8:22)」と。神が求める真の医師とは、病人の病とその原因を的確に診断し治療する者で、身体と心のみならず、魂を含めた全て(全人的)癒すことのできる者だからです。
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである(マル2:17)」と主イエスが語られた意味を、多くの人々は理解しませんでした。しかしイエスこそ救い主、また真の医者だと信頼する人もいたのです。12年間出血がとまらず、医者に全財産を使い果たしても、誰にも癒してもらえず苦しんだ女性がその一人でした(マルコ5:25~,ルカ8:43~)。主イエスの服にでも触れるなら、自分は癒され(救われ:Zozo)るに違いないと信じ、御そばに近づいた時、彼女の身体のみならず、人生全ての課題を主は癒され、救いを宣言されたのです。ここにイエスこそ、真の医師、癒し主であることが証しされます。
創造主なる神に命を与えられた人間が、神の言葉に聴き従わず、好き勝手な生き方をし、偶像を拝み、人生で結ぶべきはずの実(愛・喜び・平安…)を実らせることができない姿を神が嘆いておられることをエレミヤは語ります。「わたしは彼らを集めようとしたがと、主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく。いちじくの木にいちじくはない・・・(8:13)」と。この父なる神の苦痛を主イエスは「いちじくの木を呪う」と称される出来事において御自身の痛みとして弟子に表されました(マル11:12-14)。最も優れた医師とは、人の痛みを自らの痛みとして感じ取り、向かい合う人の病と課題に寄り添うことです。正に主イエスは父なる神の義と強さ、人間の罪と弱さという全く相反するものの架け橋となられ、救いを完成されました。私たちは弱いままで、罪人であるとの自覚を持ったままで良いとパウロは語りました。なぜならキリストに結ばれた者は「死者の中から復活させられた方のものとなり、神に対して実を結ぶもの」とされたからです(ロマ7:4-6)。その弱く罪人である私たちに、主イエスさまが共におられ、関わってくださる信頼と信仰に立たせて頂くとき、いつの間にか大切な人生における実を結ぶ喜びを経験させて頂けるのですから。
「病者の祈り」(※週報4面)を記した無名の患者さんと共に、その方に関わった主治医や霊的導き手の信仰に触れたいと思わされています。苦悩と苦痛多き社会に今生かされている私たちですが、今こそ、どのような状況においても、私たちの人生に真の平和(平安・シャローム)を与えるお方、魂と共に全てを癒し救われる真の医者、キリスト・イエスのもとへ参りましょう。
「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリ二12:9-10)。