礼拝
牧師 斎藤信一郎
10.11主歴2020 レビ記1章1~9節 「礼拝の原点-神の招きの確かさ」 牧師 斎藤信一郎
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- 礼拝プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 15番 人の目には見えねども 1、2節
聖書 レビ記1章1~9 Leviticus1:1-9
特別賛美演奏 "われは主にみな捧ぐ" 奏楽者
宣教 「礼拝の原点—神の招きの確かさ」 牧師 斎藤信一郎
祈祷
賛美 645番 すべてをくださる恵みの神1、3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 「牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。」3-4節
いつの時代も人が道具のように扱われ、命の尊厳が危ぶまれて来ました。仮想現実が加速する現代社会もこれと無関係ではありません。このような現実の中で、神が私たちをどのように礼拝に招いて下さっているかを示すレビ記第1章の内容を理解することは益々重要になって来ています。旧約聖書第三の書レビ記は、イスラエルの12部族の中で特別に祭司職を託されたレビ族に由来します。礼拝および祭司職に関する内容が中心で、現代で言えば、礼拝と信仰生活に関する手引書ということになります。
今では自分の手で動物を殺し、解体して調理することがほとんどなくなりました。そのため牛や羊の解体作業などピンとこないかも知れません。また、昔はこのような作業を礼拝の中心にしていたと聞くと、なおさら戸惑うかも知れません。しかし、この章に示される真の意味を知るならば、礼拝に臨む私たちの信仰姿勢に光りを投じることでしょう。
第1章に語られる焼き尽くす献げ物は、7章まで続く献げ物の中でも最も神聖なものでした。それは、奉納者(礼拝者)自身の命を神に差し出す代わりに、神が定めた献げ物によって受け入れて下さるという信仰が込められているからです。そのため、他の献げ物と違い、全部を惜しまずに祭壇で焼いて献げることに特徴がありました。この作業は奉納者が行い、対象の動物の頭に手を置いて神に祈りを献げた後、血を全部抜いて確実に安楽死させ、一つ一つ丁寧に解体し、祭司の協力を得て各部を祭壇で献げるという礼拝でした。
これには時間が掛かりました。しかし、自分の命の代償となる尊い命です。儀式の意味を理解し、多くの命の犠牲の上に生かされていることへの自覚と感謝を込めて行うには、ふさわしい形だと言えます。しかし、誰もが高価な子牛を買うことができるわけではありません。次に推奨されたのが羊でした。羊を手に入れることも困難な人々は、代わりに鳩を献げることが許されました。全ての人を礼拝の祝福に招きたいとの神の意志と決意が第1章に込められているのです。
現代においては、もはや昔のように動物を犠牲にしなくて済むようになりました。神の小羊イエス・キリストが自ら十字架を背負い、最初で最後の焼き尽くす献げ物となって下さったからです。時代は変わっても、キリストを通して示された神の愛をどう受け止めて礼拝し、新たな一週間を歩み出すかは、大切な問いです。礼拝の日とは、本来24時間かけて、落ち着いた状況の中で神の愛を再確認していく日です。私たちは「祝福されるために」というより、神の招きに応え、その愛を実践しながら礼拝の日を過ごします。多忙な現代に生きる私たち、そして人の命と尊厳が危ぶまれる現代に生きる私たちだからこそ、事前に心と体の疲れを少しでも回復させて礼拝に臨みます。こうして歩み出す新たな一週間は、神の恵み豊かな愛に満たされるのです。