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ライブ礼拝
友納靖史

2021.3.28 主日礼拝「この人を、見よ!」 友納靖史 牧師 ヨハネによる福音書19章1~16節(新共同訳 新約P.206-207)


礼拝出席カード


音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏           奏楽者
招詞           司式者
祈祷           司式者
賛美  205番 まぶねの中に 1、3、4節 
聖書  ヨハネによる福音書19章1~16節  
特別賛美演奏  "きみもそこにいたのか"   奏楽者
宣教  「この人を、見よ」 友納靖史師
祈祷
賛美  614番 主よ終わりまで 1、2節 
献金感謝         司式者
祝祷
後奏
宣教概要
 今日から受難週。主イエスが十字架に架けられた金曜の午前中、ローマ総督ピラトより死刑宣告を受ける経緯が18章28節から記されます。ピラトは、大祭司たちによって連行されたイエスと対面し、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない(19:4)」と真実を見抜き、過越祭の慣例・罪人一人の恩赦を、イエスに与えようと考えました。しかしその場にいた人々は、強盗バラバを選ぶよう迫ったのです。そこでピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせ…兵士たちは茨で冠を編んで頭に載せ…ました。この惨めな姿となったイエスを群衆の前にさらすことで、人々の感情が動き、この人に何の罪もないことを悟らせようと努力したのです。なぜなら「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだった(マタ27:18/マル15:10)」と、イエスを殺そうとする真の動機をピラトは見抜いていたからでした。ですからピラトは祭司長と下役たちが「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫ぶ声に対して、繰り返し「この男に罪を見いだせない(19:6)」と語り続けます。しかし、「自らを神の子と自称した罪は死罪」だと、律法を印籠のようにかざして正当化する大祭司の主張に圧倒され、恐れがピラトの心を覆ってしまいました。
 この日ピラトが粘り強く、繰り返しイエスを解放しようと努力する姿から、イエスが「何者であるのか」、ピラトは何か感じていたのではないかと推測されます。なぜなら、兵士たちがイエスに茨の冠を頭に載せたとき、「この人を、見よ (見よ、この男だ) ラテン語“エッケ・ホモ”」と呼びかけ、再び「見よ、あなたたちの王だ」とイエスを死へと追いやろうとする人々に投げかけて、罪なきイエスの真の姿に気づかせようと試みたからです。
 イエスを死刑にすることを思い止まらせる最後の抵抗を込めたピラトの言葉、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」に対し、祭司長は何とこう答えたのです。「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と。神の真理を誰よりも理解しているはずの祭司長が、自らを神と称するローマ皇帝を是認し、「わたしたちの王」とまで告白する大罪を犯す姿が描かれます。『使徒信条』には、主イエスの受難を「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」…」と一言で表現されます。しかし福音書記者ヨハネは、ピラトよりも重い罪を犯したのは実は大祭司であったと訴えかけます。自らの地位の保全を優先し、真実を貫けなかったピラト。そして「長いものに巻かれろ」的群衆心理に侵された人間のこれらの罪が、キリスト受難の理由とされてきました。しかしヨハネは、旧約(モーセ五書他)に基づく神信仰を誰よりも理解しているはずの大祭司が、救い主なるイエスの命を奪った大罪人だと語るのです。この出来事は、2000年近い時を経て、イエスの愛に基づく信仰を与えられた私たち現代に生きる者に対しても、キリスト受難の意味を深く省み、静かに黙想(霊操)するようにと問いかけています。
近年、LGBT(性的少数者)と呼ばれる人々に対しての異なる聖書と倫理の理解、対応によって、世界中の教会で、大きな分断が引き起こされています。全ての存在を創造され、生かし、救いを与えられる主なる神を信じる私たち。イエスを十字架の死へ追いやった大祭司の教訓を生かし、「主イエスだったら、どうされたか?WWJD」と今こそ問い、行動する必要があります。神の“愛と義”を苦難の中でも貫かれたお方が今も私たちの目の前に立っておられます。そして「この人を、見よ!」と私たちの内に響く声を聞き逃すことなく、主イエスの愛に従う信仰を表明し、決断する教会とされましょう。受難の先にある復活の主イエスを見つめつつ。

「 わたしは世の光である。わたしに従う者は
   暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。…
自分がどこから来たのか、そしてどこへ行く
  のか、わたしは知っている」(ヨハ8:12,14)。