VIDEO

教会のビデオコーナー

  1. HOME
  2. 教会ビデオ
  3. 常盤台バプテスト教会 2021.12.12 主日礼拝 『暗闇から命の光へ』藤井健児 名誉牧師(福岡・香住ヶ丘バプテスト教会) 【ヨハネによる福音書8章12節 (新共同訳 新約P.181)】

礼拝
藤井健児

常盤台バプテスト教会 2021.12.12 主日礼拝 『暗闇から命の光へ』藤井健児 名誉牧師(福岡・香住ヶ丘バプテスト教会) 【ヨハネによる福音書8章12節 (新共同訳 新約P.181)】


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                     
招詞  詩編119篇105節         司式者
祈祷                    司式者
賛美  167番 天にはさかえ 1、3節 
聖書  ヨハネによる福音書8章12節
特別賛美演奏  "ひつじかい主は"      M&M’s            
宣教  「暗闇から命の光へ」 藤井健児牧師(福岡 香住ヶ丘バプテスト教会名誉牧師)
祈祷
賛美  176番 主は豊かであったのに 1、2節 
献金感謝                 司式者
祝祷
後奏
ー 藤井健児牧師 略歴 ー



1931年 福岡県に生まれる。



1938年 小学校入学直前、ひき逃げ事故に

    より左眼の視力を失う。



1939年 福岡県立福岡盲学校に入学。



1948年 将来の盲教育者を目指し、東京教育

    大学付属盲学校高等部に入学。



1951年 右眼の視力も落ち、完全失明。



1952年 目白が丘バプテスト教会(東京)に

    おいて受浸。キリスト者となる。



1953年 西南学院大学神学部に入学。



1972年 西南学院大学神学部専攻科

    (牧師課程)卒業。

    香住ケ丘バプテスト教会牧師就任。



1972年 九州発の盲導犬1号を使用。

    2016年 5頭目を使用

    2021年8月 使用終了



1988年~1997年 

    香住ケ丘バプテスト教会付属『

    ひかりの子』校長就任。



1997年 香住ケ丘バプテスト教会退職。

    現在、同教会名誉牧師。



 1999年 学校法人愛生学園愛生幼稚園園長

     就任。



 2010年 学校法人愛生学園愛生幼稚園園長

     退職。



 現在も、ペシャワール会※ 理事

 ※中村哲医師のパキスタン北西部辺境州ならび にアフガニスタンの医師活動などの支援。2000年以降は医師活動に加え、アフガニスタンを襲った大旱魃対策のための水源確保、アの大地計画)を実行。また灌漑水利計画に着手進行中。



当教会・季誌「めぐみ」に掲載された故中村哲医師の人生を変えた関係性についての箇所を以下抜粋。本日は藤井牧師より直接メッセージを頂ける恵みを主に感謝致します。



中村哲兄の人生を支えた力とは、キリストとの出会いです。

 ミッション系学校は、日曜の礼拝こそ教育の大切な場と位置づけ、各家庭近隣の教会へ出席することを長年強く勧めており、そこで通い始めたのが香住ヶ丘バプテスト教会でした。 遊ぶか寝ていたい日曜の朝。喜んで教会へ行く学生は珍しいなかで、彼は毎週熱心に通ったそうです。 実はその頃の家庭状況を重ねると、高名な文学者で尊敬する伯父・火野葦平(享年52歳)が突然自死する出来事が起き、人生の生きる意味をこの年齢にして重く投げかけられました。 そのような時、人間の罪を担うため生まれて歩まれたキリスト・イエスにある救いと福音の種は、彼の心と魂の奥深くに蒔かれ留まったことでしょう。そしてバプテスマ(浸礼:水に浸る洗礼)を中学2年生で自ら受ける決意をされたのです。 人生の苦難や痛みを抱える者にこそ、「天(神は)、共にあり(おられる)」と、悲しみを慰めと希望へと変えてくださるキリストの福音に触れた喜びと平安が、その後の歩みからも読み解くことができます。



通い続けた教会での、全盲者・牧師との出会いです。

 若くして不慮の交通事故に遭い、両目を失明し、苦悩を乗り越えて、神と他者に仕えて生きる藤井健児牧師との交流は、哲兄の将来を大きく変えていきます。 自然生物好きな彼は農学部への進学を願っていましたが、父親は医学部への進学を強く押し、その狭間で葛藤しつつ、礼拝へ通っていました。 彼の心の悩みを、牧師と語り分かち合う中、「藤井先生のような人を救う医者になりたい」と明確な人生の目的を啓示され(神の計画と信じ)ます。 その時より、迷わず医学の道へと進む決断をされ、日本キリスト教海外医療協力隊より派遣されパキスタンのペシャワールに赴任(1984年)し、その後の人生を賭するアフガニスタンへの道が備えられていったのです。

                 (全文は季誌「めぐみ」333号参照)