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ライブ礼拝
友納 靖史

2021.5.16 主日礼拝 「悲嘆から希望の民へ②『神(主)はどこにおられるのか』」 友納 靖史 牧師  【エレミヤ書 2章 4~13節】(新共同訳 旧約P.1174)


礼拝出席カード


音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏               奏楽者
招詞               司式者
祈祷               司式者
賛美      リビングプレイズ69番 鹿のように 
聖書      エレミヤ書2章4~13節
特別賛美    "主イエスの十字架の血で"   奏楽者
宣教      エレミヤ書 講解説教シリーズ
        悲嘆から希望の民②       
        「神(主)はどこにおられるのか」 友納靖史牧師
祈祷
賛美       386番 あまつ真清水 1、2節 
献金感謝             司式者
祝祷
後奏
宣教概要
「神はどこにいるのか?!」と嘆くとき、それは人生における理不尽な苦悩を体験した人の魂の叫びとして語られることが多くあります。しかし今日の箇所では、主なる神御自身が発せられた叫び声です。神より注がれた多くの恵みと救いを忘れて、神の民イスラエルは生活していました。神はせめて彼らが、「主はどこにいるのか」と問い、主を探し求めてくれさえしたならば、これから起きる国が滅び、捕囚とされていくことはないのにとの「神の痛み」が今日の箇所に滲み出しているのです。
エルサレムの人々にエレミヤを遣わして呼びかけたとき(2:1~)、神を忘れた彼らの心の奥底から、出エジプト以降に現わされた神の愛の御業への感謝の思いが湧き溢れることを願っていたことが伺い知れます。「わたしは、あなたの若いときの真心。花嫁のときの愛。種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。イスラエルは主にささげられたもの、収穫の初穂であった(2:2-3)」。つまり、神と神の民との関係は花婿と花嫁の初々しいハネムーンのような結婚関係があったこと。また労苦の末に得た初収穫の際、感謝と喜びに満ち溢れ、純粋に神を礼拝した信仰を思い起こさせようとされました。けれども悲しいことに人間は、神そして他者から受けた恩恵に対しての感謝と敬意の心を、いとも簡単に枯れ果てさせる弱さを持ち合わせています。当時、宗教改革を行った善き王・ヨシヤの時代において神がエレミヤに命じられたことは、神の願いは裁きと滅びではなく悔い改めであることを人々に悟らせることでした。主なる神の存在と信仰を忘れて滅び去った北イスラエル王国のようにではなく、南ユダ王国の人々が、今この預言者の言葉を聴く者たちが方向転換し、同じ過ちを繰り返すことのないようにと、鬼気迫る愛のメッセージを神は送られたのです。更に主は言われました。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを(2:13)」。エレミヤによってこれらの言葉が語られたのは、時代を越えて私たち一人一人も「ハッと我に返る」ことを願ってのメッセージでした。神より与えられた魂(霊)より湧き溢れる信仰の泉や井戸、つまり「生ける水の源」が枯れないように、持続可能な神との良き関係を保ち続けるためにです。人が本当に人生で平安と安息を得られるのは、物質的に満たされることでも、律法順守でもなく、ただ「主なる神と共に歩める喜び」こそが、魂を満たす「生ける水」なのです。その生ける水が湧き溢れてくる源を蔑(ないがし)ろにして、神より与えられる人生の祝福を垂れ流し、無駄にする姿見て、神御自身が一番痛んでおられるからです。
壊れた水溜め(水瓶)のような人間を癒し、救ってくださったお方こそがキリストなるイエスでした。様々な人生の課題を抱えて悩み続けていたサマリアの女性(ヨハネ4:7-26)は主イエスとの出会いと対話によって「決して渇くことのない水」を汲む者へと変えられました。イエスと共に生きることを決断する時、正に「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(ヨハネ7:38)」のです。
 私たちの心や人間性が荒(すさ)んでカラカラに干からびていることを、実は自分では気づかないことがあります。現代社会はこれまで、実利効率成功至上主義に侵され続けていました。しかし新型コロナ危機に見舞われ、自らの生死を改めて省み、「神はどこにいるのか」との魂の叫びを発するチャンスを頂いたのかもしれません。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める(詩編42:2)」。この賛美のように私たちは真の神を探し(慕い)求め、そのお方との出会いによって湧き溢れる、平安と希望、感謝からこう告白する者とされるのです。「私の神、主はここにおられます」と。