VIDEO

教会のビデオコーナー

  1. HOME
  2. 教会ビデオ
  3. 2021.5.2 主日礼拝 「悲嘆から希望の民へ①『恐れず、語れ』」 友納 靖史 牧師  【エレミヤ書 1章 1~10節】(新共同訳 旧約P.1172)

礼拝
友納靖史

2021.5.2 主日礼拝 「悲嘆から希望の民へ①『恐れず、語れ』」 友納 靖史 牧師  【エレミヤ書 1章 1~10節】(新共同訳 旧約P.1172)


礼拝出席カード


音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏               奏楽者
招詞               司式者
祈祷               司式者
賛美      375番 海よりも深い主の愛 1、2節 
聖書      エレミヤ書1章1~10節
主の晩餐式を覚えての黙想  "ひとつの聖霊"   奏楽者
宣教      エレミヤ書 講解説教シリーズ
        悲嘆から希望の民へ①「恐れず、語れ」 友納靖史牧師
祈祷
賛美       384番 語り伝えよ 神のみ言葉 1、3節 
献金感謝             司式者
祝祷
後奏
宣教概要
旧約時代、神の民が歩んだ苦難と恵みの道を辿ることは、現代に生きる私たちにも自らの人生を顧み、善き道を選び直すチャンスとなります。エレミヤ書を通して主イエスにある福音を分かち合う、今日より始まる講解説教シリーズは、新型コロナによってこれまで築いてきた多くが壊され、いつまで続くのか先が見えない「今ここにある危機」の悲嘆を分かち合います。そして何よりも、主なる神が回復への希望を私たち全ての者に与えておられることを信じ、共に乗り越える力を主から頂くために御言葉を受けて参りましょう。
BC586年、南ユダ王国も北イスラエルに続いて、自らが神に背き偶像礼拝を行った罪の故に、隣国によって滅ぼされ国土全て、そして主の神殿を失うことになります。本来は、そのようなことが起きないために預言者は前もって立てられ、語らせられるのですが、当時の人々は神の言葉に耳を傾けることはありませんでした。預言者とは、自分が語りたいこと、民が望む言葉ではなく、主なる神から命じられたメッセージを取り次ぐ者として選ばれました。神の選びは、昔も今も、人間の理解を遥かに超えています。神がエレミヤに最初に語りかけた言葉とは、彼が母の胎内に宿る前から、神はエレミヤを「知って」おられ、「聖別」し、神の「預言者として立つ」ことを計画されていたと語りました。これは、詩編139篇(13-16節)にある命の神秘、又パウロが宣言した驚くべき神の選びの計画と通じるものです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました(エフェソ1:4)」と。特に主なる神はエレミヤを「諸国民」の預言者、つまり当時の南ユダに住む人々のみならず、他の民族、それも時代を越えた全ての人々へ語りかける預言者として選ばれたと宣言されたのです。
 それに対してエレミヤは不安と恐れを抱きつつ答えます。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから…」と。しかし、主は彼に、今の自分の姿を見て判断し無理だと思ってはいけないと語りかけます。「わたしが遣わす≪人々のいる場所≫に行って、命じることを≪すべて≫≪恐れず≫語れ」と。なぜなら、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出すから」だと。聖書で神に選ばれる人々は誰一人として、自分が相応しいとか、神の務めを担える自信を持って立つ者はいません。「選び」とは常に主なる神が「主導」され、それに応えるか否かがその人に問われます。この書はエレミヤの書記として立てられたネリヤの子バルクにより、書の冒頭に気の弱いエレミヤ自身の素の姿が口述されたことは意味深いと感じます。なぜなら、BC626年に預言者として立てられ、南ユダ王国がバビロンに捕囚となるまでの40年間、何度も預言者としての務めを投げ出したい、自分は相応しくないと思ってエレミヤが苦しんだことがこの書全体から伺い知れるからです。しかしそれでもなお、召命を受けた時の主なる神との最初の対話が彼を初心に立ち返らせ、神の愛を思い起こして支えられた喜びを、書記に記録させたに違いありません。それは主イエスが弟子たち、それに続く者を選ばれた宣言のように…「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ(ヨハネ福15:16)」と。
 この困難な時代にキリスト者として立てられ、生きることになった私たち。今こそ、それぞれが救いに導かれた時の初心を思い起こし、共に主の語りかけに聴き従いましょう。その時、私たちはエレミヤのように、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」てしまう苦難と悲嘆の時代においても、その後に備えられた再び主にあって「建て、植え」る働きのために私たちは生かされているからです。主にある悔い改め、そして希望の御言葉とを恐れずに語る使命を担わせて頂けますようにと共に祈ります。