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礼拝

3.22主歴2020家庭主日礼拝ビデオ『過越の時④』

出エジプト記16章1~16節(1~36節)
過越祭が近づいたある日、ガリラヤ湖を渡った山上で主イエスは五千人を超える群衆を前にします。少年の持つ5つのパンと二匹の魚を手に取り「感謝の祈り」を唱えて配ると、全ての人々の空腹が満たされました。その翌日、主はこう語られます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである(ヨハネ6:32-33)」。
ここで主イエスが最初に言及した「天からのパン」とは、40年に亘って砂漠を旅したイスラエルの民に、神が与え続けられた「マナ」のことです。飲み水が神によって備えられた民は、次には空腹を訴え、エジプト時代に食べた肉鍋、腹一杯に食べたパンを思い出し、モーセとアロンに向かって不平不満を懲りずにぶつけます。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった…(16:3)」と。奴隷生活から解放され、多くの奇跡を見たにもかかわらず、喜び・感謝を簡単に忘れる程に、人は身体的必要が欠ける時、精神的・霊的にも実にもろくなる存在です。その時、主は語られます。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す(16:4)」と。驚くべきことに主なる神は、自らのことしか考えられない民衆の訴えに次々と応えてくだることが16章に記され、神の忍耐強さに驚かされます。その一方、感謝を忘れ不平不満ばかりを述べる群衆に指導者達は疲れ果てていました。モーセは繰り返し民に訴えます。「…我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べている…(16:6-9)」。神に立てら
れたリーダー達も一人の弱い人間だからです。
このマナの出来事で今日、もう一つ心に留めたいメッセージは、神が安息日の前日以外、「それぞれ一日に必要な分だけを集めよ」と命じられ、必要のない分まで貯めないよう戒められたことです。つまり、日毎の糧を神が与えられることを信頼し、自ら必要な分以外のマナを貯めおかず、隣人と分かち合う訓練をなされたのです。モーセらに示された主なる神の関わりと、主イエスを通して示された真理とは、時代を越え通じるものです。いついかなる時代にも人々が食料を含め、神より与えられた恵みを分かち合う隣人との関係性と信仰共同体の在り方は、区別されず、一つであるからです。
モーセ時代から続く「過越の祭り」や主イエスの制定された「主の晩餐」、そして「五千人の給食」の奇跡における食卓の交わり。いつの時代にも課題となる格差社会に対する「キリスト共同体」が担うべき働きが問われています。今、世界中を席巻している新型コロナのことをある人が、人類の「生き方を変えるウイルス」ではないかと評する言葉に釘付けになりました。もしかして、数週間前、実は私たちは突然、思いもよらない出来事を通して「現代の出エジプト」、つまり現代社会の奴隷支配から解放されるため新しい旅へと押し出されたのかもしれません。私たちは今、かつてのエジプトに戻ることを願い、不平を言う民となるのか、それとも試練を信仰によって受け止め、約束の地へと向かう希望の群れとされるのでしょうか。
私たちはこう祈ります。
「主よ、不平不満とつぶやき続け、40年も荒れ野を放浪することになった民のようにではなく、日毎の糧をお与えくださる主への信頼と感謝を忘れず、一人も漏れることなく神に備えられた約束の地へと我らをお導きください」。
アーメン。