礼拝
8.16主歴2020 ヨシュア記8章30~35節 約束の地へ共に⑧『呪いさえ祝福へ』友納靖史牧師
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- プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 230番 丘の上に立てる十字架 1、2節
聖書 ヨシュア記8章30~35節 Joshua8:30‐35
特別賛美演奏 "God Bless You" 奏楽者
宣教 「約束の地へ共に⑧『呪いさえ祝福へ』」 牧師 友納靖史
祈祷
賛美 537番 重い荷をにない
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教要旨
- アカンの犯した罪がイスラエルの民にもたらした敗北。その罪に対する裁きは民全体に深い衝撃を与えました。神の前に悔い改めた民は約束の地へ向かうため、再びアイと戦います。ヨシュアは前回と異なり、選りすぐりの勇士三万人と全力で戦い、戦闘的には勝利を収めました。しかしこの時、彼は勝利に酔いしれることなく、主のために祭壇を築き、礼拝を奉げ、「ヨルダン川を渡り、エバル山に着いたなら、大きな石に漆喰を塗り、祭壇を築き、律法の言葉をすべて書き記せ(申命記27:1-8)」とのモーセの命令を第一に果たします。この時、モーセは民を祝福するため、「呪いの掟」(申27:9-26)も共に神の民の心に刻んだのです。
日本語で使われる「呪い」とは、人間が作り出した神々、また人間自身が、怒りと恨みから悪意をもってその相手を不幸にしようとする行為です。しかし聖書が語る「呪い」とは、神の怒りも含まれますが、民自らの罪から「当然の結果として生じる苦難」が及ばないために、先立って語られるものです。これは何よりも神の愛に基づいた教育的目的を明確に含む、実は祝福の言葉なのです。
申命記27章記される「呪いの掟」とは、十戒の教えを発展させ、間違った行為とは何かが具体的に分かるように言語化された「十二の戒め」が語られます。人が作った神を偶像として拝む行為、父母を軽んじる行為、また寄留者に対する差別行為への禁止などです。正にこれらは、神の掟を知らずに、また軽んじてしまうことにより、当然の結果としてその人の人生が苦悩(「自分は呪われた…」と思うような)状況に置かれないためにと、主なる神がモーセを通して語られたのです。そしてその掟は、次に続く全ての世代にも、変わることのない普遍の教えであり、神より祝福を受けるためのものでした。ヨシュアはアカン一人の犯した罪が、全イスラエルに及んだ体験から痛いほど学び、彼は心を込めて、神の言葉に従う決意を「律法の言葉すなわち祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げ(ヨシ8:34)」表明したのです。
その後、イエスが地上に来られるまでの間、この神の祝福の掟を守れない、また守らない人間の罪により、「神に呪われているかのように思う」暗闇が人々を覆いつくしていました。神の律法や掟を知っているはずの神の民さえも神の真理を理解していなかったのです。そこに神の御子イエスが御言葉を伝えつつ、何よりもイエスご自身が神の祝福のしるしとして歩まれました。そして遂には、私たちが受けるべき罪の当然の結果であったはずの「呪い」〈永遠の滅び(死) 〉を全て、主イエス御自身が十字架で身に受け、主なる神の愛と救いを完成されたのです。こうしてイエスを救い主と信じる者は、間違った「呪い」や「行いによって救われようとする律法の呪縛と不安」から解き放たれるのです。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)との使徒パウロの宣言通りです。
弟子のペトロは主イエスが十字架につけられる前夜、官邸カヤパの庭で「呪いの言葉さえ口にしながら『そんな人は知らない』」と主を三度否認しました(マタイ26:74)。私たちも心の底にはペトロと同じ罪と弱さを抱えています。だからこそヤコブの手紙は、私たちの「同じ口から賛美と呪い」が出ない者とされて生きる知恵と力が注がれるようにと語りかけます(3:9-10)。またパウロは、迫害する者のためにも「祝福を祈り、呪ってはならない」(ロマ12:14)と勧めました。それは、祈りを通して主なる神と親しく交わり、御言葉と聖霊の油注ぎを受け、自らの罪や感情と闘い、打ち勝つ恵みを経験するからです。こうして、私たちは真の人生の勝利者として平安と喜びを保たせて頂く者とされます。
呪いさえ祝福へと変えて下さる主イエスの愛と十字架を見上げて歩みましょう。