礼拝
友納靖史牧師
9.20主歴2020 ヨシュア記12章1~6節 約束の地へ共に⑫『忘れないで…』友納靖史牧師
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- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 261番 み霊なる聖き神 1、3節
聖書 ヨシュア記12章1~6 Joshua12:1-6
特別賛美演奏 "忘れないで" 奏楽者
宣教 「約束の地へ共に⑫『忘れないで...』」 牧師 友納靖史
祈祷
賛美 339番 教会の基 1、2節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- ヨシュア記にはイスラエルの民によって、カナン地方に住む7部族と31人の王たちがほぼ全てが征服され、聖絶された出来事が詳細に記録されます。特に12章は、あたかも滅ぼされた部族と王たちの墓碑名を読み上げている錯覚さえ覚えます。イスラエル民族の視点から読み解くと、これは勝利の歴史でしょう。しかし占領された民族の視点からすると侵略・虐殺の歴史です。そしてイエスの福音に触れた新約信仰の視点から読むとき、胸が絞めつけられる程に苦しい出来事が描かれています。過去に起きた事実を聖書がこのように克明に記すのは、当時の征服や殺害を正当化する目的ではありません。そうではなく、悲しい人類の歴史、無知と罪にまみれた悲惨な歴史であったことを「忘れない」、いや「忘れてはならない」と語りかけるのです。誰一人過去に戻ることが出来る人はいません。過去を誰一人変えられないからこそ、今を生きる私たちが過去に学び、未来に生かすことを問われ、求められているのです。
歴史上、最も忘れてはならない出来事こそ、神の御子・イエスを十字架で殺害したことです。しかし、その人間の罪と過ちさえ、父なる神の赦しと愛ゆえに、人間を完全に救済する出来事へと変えてくださいました。かつてはキリスト(者)を迫害する者であったパウロは、この驚くべき神の救いが十字架において実現したことをこう告白します。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラテ2:19-20)」と。罪ある自分が十字架で共に死に、今生かされている自分とは、神に罪赦され、救われた新しい人に生まれ変わったことをパウロは喜びをもって告白するのです。ステパノ殺害に関わった件を含め(使徒7:54-8:1)、パウロは過去に自らが犯した罪を思い起すと胸が張り裂けんばかりの恥と罪責感で一杯になりました(テモテ一1:15)。しかし復活の主イエスと出会い、新しく生きる道と使命を託されたパウロは、「この方こそ神の子である」とイエスを宣べ伝える人へと造り変えられたのです(使徒9:1-22)。こうしてパウロは、アブラハムの血を継ぐ民だけが祝福されるとする伝統的ユダヤ人信仰から、「(イエスを信じる)信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子である(ガラ3:7)」と告白する新たな福音の信仰を宣べ伝える者へと変えられました。
イスラエルの民がカナンを占領した歴史は決して他山の石の出来事ではありません。「八紘一宇」を掲げた終戦前までの日本を見ても、かつてアイヌや沖縄の人々の住む土地と言語を奪い、日本人にした負の歴史を抱えています。私たちはその歴史を忘れず、そのような過ちを繰り返さない責任があります。主イエスの十字架を見上げる時、ただ自らが救われた喜びだけでなく、主を十字架に架けた自らの罪をも思い起こし、悔い改める信仰こそ、ボンヘッファーが語った「安価な恵み」でなく「高価な恵み」に生きる者へとされるのです。
人間が神を忘れ、神の恵みと救いを忘れても、「わたしがあなたを忘れることは決してない(イザヤ49:15)」と主なる神は語られます。この驚くべき神の愛を常に思い起こさせて頂く時、神の愛なる福音に立ち、世の終わりの時代でさえも、世界中の隣人と共に生きるキリストにある平和の道を選び取る信仰が注がれるのです。
「♪忘れないで、悲しみ夜は、希望の朝に変わることを…」と賛美する時、何度も主の御前に引き戻される経験をさせて頂きました。キリストの福音に基づいて生きようとすると、今も多くの嵐が吹きすさぶかもしれません。しかし、主なる神に命を与えられた全ての人を、神が決して忘れることなく関り続けてくださることを忘れないで、この困難な時代にも福音の種を蒔き続けましょう。「忘れないで…」