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「違いを受け入れて」山下真実牧師

私たちは「弱い」ということをどう捉えているでしょうか。
パウロが手紙を書いた当時のローマの教会には、生活上の様々な「違い」をもった人々が集まっていました。そのような「違い」の中、ある人々の価値観が、「信仰」という尺度に照らしたときに「弱い」とされ、批判されていました。パウロはそのようなローマの教会の人々に対して「信仰の弱い人を受け入れなさい」(1節)と語りました。なぜなら、「神はこのような人をも受け入れられたからです」(3節)。当時の教会と現代とでは、「信仰」の強い弱いの尺度に違いがあるかもしれません。しかしいつの時代にも、教会や社会において「弱い」とされ、また「弱い」ことによって「その考えを批判」(1節)されてしまう人々がいるということに、パウロは光を当てています。
私たちの間にある「違い」は、どうしてこうも力の差を生み、対立を生み、互いに対する批判へと繋がっていってしまうのでしょうか。それは、私たちがそれぞれに、自らの信念や信仰に基づいて、大切にしていることがあるからです。しかしパウロは、私たちがその自らの大切にしていることを、相手に押し付け「裁く」ことがないように、また相手を自分よりも「弱い」といって「侮る」ことがないようにと警告しています(10節)。
私たちが生きる基準は、「自分のため」か「主のため」かの二択であるということを覚えたいと思います(7, 8節)。「自分以外の誰かのため」に、その人の存在が否定されることを、パウロは「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」という言葉で痛烈に批判します。その人も、神さまによって受け入れられた存在だからです。確かに彼は間違っているかもしれません。しかし「召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです」。そして彼が「弱い」故に倒れたとしても、「主は、その人を立たせることがおできになるからです」。(4節) そこにこそ十字架と復活の神秘がある。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(9節)。
そもそもここでの「弱い」という言葉には、「力をもたない」「貧しい」という意味があります。「弱い」ということ、それは詩編において「力を捨てよ」(46:11)と語られている通り、自らの力を手放して、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えて」(箴言3:5)生きる、信仰者にとって大切な資質ではないでしょうか。そんな「弱い」あなたが、「自分の心の確信」(5節)に基づいて、神さまによって「あなたの道」を歩まされていくその時 、「主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」のです(箴言3:6)。
私たちは一人ひとり、神さまから「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)と言われています。私は「自分のため」でも「他人のため」でもなく、「主のため」に生きようとしているか、自らの「弱い」信仰を、いつも確認していたいと思います。

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