「コイノニアー神と共にある平安」友納靖史牧師(2018/11/04)

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「コイノニア」とは、第一に「神との霊的な交わり」、第二に「キリストを信じる者同士が主を介して持つ交わり」の両方を意味するギリシャ語です。今週は、神との関係を深めることにより、真の平安がどのように与えられるかを分かち合います。毎週の礼拝を終える直前にある「祝祷」の言葉の一つに、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり(コイノニア)が、あなたがた一同と共にあるように(コリ二13:13)」が祈られ、主なる神とのコイノニアがいかに大切であるかが宣言され、この世へと遣わされていきます。

「神の示す方向」松崎準牧師

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ヨナは、紀元前8世紀の北王国イスラエルの預言者です。神はヨナにアッシリアの都ニネベへ行って預言をするように命じます。その内容は「悪を悔い改めて行いを改めなければ、まもなく神の審判が下り滅ぼされる」というものでした。しかし、ヨナはこの命令に従わず、反対方向のタルシシュ(現在のスペインの辺り)に逃げて行きます。しかし、神はヨナが逃げるのを許しません。神はヨナの乗った船に嵐を送り、身動きが取れないようにします。船員たちはそれぞれ自

「違いを受け入れて」山下真実牧師

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私たちは「弱い」ということをどう捉えているでしょうか。
パウロが手紙を書いた当時のローマの教会には、生活上の様々な「違い」をもった人々が集まっていました。そのような「違い」の中、ある人々の価値観が、「信仰」という尺度に照らしたときに「弱い」とされ、批判されていました。パウロはそのようなローマの教会の人々に対して「信仰の弱い人を受け入れなさい」(1節)と語りました。なぜなら、「神はこのような人をも受け入れられたからです」(3節)。当時の教会と現代とでは、「信仰」の強い弱いの尺度に違いがあるかもしれません。しかしいつの時代にも、教会や社会において「弱い」とされ、また「弱い」ことによって「その考えを批判」(1節)されてしまう人々がいるということに、パウロは光を当てています。

「信条から告白へ⑩『限りなき命にアーメン』」 友納靖史牧師

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私たちは“限られた生命と時間”の中で生きる者です。しかし神が「人の心に永遠を思う思いを授けられた(口語訳:伝道の書3:11)」と、未だ経験のない永遠の時を、思うことが可能な存在とされていると約束されます。ですから、私たちは“限りない・いのち”に思いを馳せることができます。ところが、旧約聖書では、死を迎える全ての人は地深くにあるシェオール(陰府・よみ)へ行くと考えられていました(ヨブ記7:9他)。

「信条から告白へ⑨『完全なる罪の赦しを信じる』」 友納靖史牧師

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ペトロの説教を聞いたエルサレムの人々は、「(十字架につけられるイエスを茫然と見守った)わたしたちはどうしたらよいのですか」と問います。すると「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい(使徒2:38)」とペトロは答えました。人が神によって救われている確信を得ることができるのは、善い行いによる自分の努力ではなく、ただイエスの「贖い(あがない・負債が帳消しにされる意)」によると聖書は語ります。コロサイ書も、「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださった(2:13-14)」と宣言します。

2018年9月16日 礼拝メッセージ

音声のみはこちら

「使徒信条」の後半には、「聖」という言葉を繰り返し用い、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」と告白されます。「神の霊」に付記されることは当然ですが、不完全な者の集う「教会」や「交わり」に対して「聖なる」と告白することには少々戸惑いを覚えます。

「 信条から告白へ⑧『教会の使命を信じる』 」 友納靖史牧師(2018/09/16)

音声のみはこちら

「使徒信条」の後半には、「聖」という言葉を繰り返し用い、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」と告白されます。「神の霊」に付記されることは当然ですが、不完全な者の集う「教会」や「交わり」に対して「聖なる」と告白することには少々戸惑いを覚えます。