「イエスの語る旧約の福音(23)『捨石が親石へ』」友納靖史牧師(2019/10/06)
[聖書]詩編118篇22~29節、ルカよる福音書20章9~19節
石造建築物を建て、その最も要となる土台の石を『親石(cornerstone)』と呼びます。それが外れると、建造物全体が崩れるからです。主イエスは過越の祭りで朗読され、ユダヤ人に愛読された詩編より「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった(118:22)」を引用されました。その直前、主イエスが語られた譬え話は、当時の宗教家達を相当憤らせます。なぜなら、「ある人」とは父なる神、「ぶどう園」とは神の民イスラエル、そして「農夫たち」とは当時の宗教指導者たちを指していると分かったからです。収穫時、ぶどう園へ神が送った「僕しもべ」とは旧約に登場する多くの預言者たちを指し、神が遣わしたその僕らに暴行を加え侮辱し、農夫たちは追い返すことを繰り返しました。そこで遂にぶどう園の主人(神)はこう言うのです。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう(ルカ20:13)」。ところが、農夫たちはその息子さえも外に放り出し、殺してしまった…と主は語りました。この「息子」こそ、神の御子・イエス御自身のことであり、その身に同じこと(十字架の苦難)が起きようとしていたのです。この譬え話に痛みを覚えた民衆たちは、口々にこう言いました。「そんなことがあってはなりません!」。
そこで主は、詩編118篇22節を用い、退けられた(十字架の死によって全てが終わった)かのように思えた出来事が、実は親石の存在として用いられ(救いが完成す)ると明確に語られたのです。誰も予測しなかった驚くべき神の計画を主イエスだけは知っておられたからです。
この主の言葉の意味を弟子が理解できたのは、ペンテコステ(聖霊降臨)の後でした。イエスの死と復活の福音を伝え、投獄されたペトロがサンヘドリン(宗教議会)の前でこう語ります (使徒4:10-12)。「(奇跡が起きたのは)あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたなのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ『あなたがたの家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。他のだれによっても、救いは得られません」。
捨石が親石へと変えられる祝福は、主イエスを信じる者の人生においても同じです。パウロはこう告白します。「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。…神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた (コリント一1:26-29)」。教会の親石は全ての者の救い主なるイエス・キリストです。この世における神の栄光を現す建物の一部として私たちも用いられます。何が起きても決して崩されることのない信仰と希望の基である主イエスを人生と魂の親石として据え、歩み続けましょう。