「イエスの語る旧約の福音(25)『労苦の実り 』」友納靖史牧師(2019/10/20)
[聖書]イザヤ6章1~8節、ヨハネよる福音書4章31~38節
イザヤ(「主は救い」の意)が預言者として立つまでには、心備えの期間が必要であり、6章に至り彼の召命決意が証されています。イザヤはウジヤ王(南ユダ王国10代)が亡くなった紀元前742年頃、国状不安定な折、霊的な預言者として政治上でも役割を担う働きへ召し出されました。イザヤが神と出会うのは、聖三唱(神を『聖なる』と三回唱える)、つまり神殿祭儀の礼拝のただ中でした。この賛美を通して彼は神の聖さ (神と人との分離・隔たり) に触れ、自ら罪人であると明確な信仰告白へ導かれます。イザヤは自らの罪と、国家に対する神の裁きへの不安から正しい「罪の意識」と共に、実は必要のない「罪責感」も生じました。それを知られた神は、セラフィム<天使のような存在>を遣わし(6:6)祭壇から火ばさみで取った炭火を彼の口に触れさせ、「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と宣言されます。こうしてイザヤに心からの平安と希望が与えられたのです。まず自らの罪が赦され、ユダ王国全体の罪も赦される希望です。しかし、過去の言い伝え(「神を直接見ると死に至る」と信じられていたこと)という罪責感からも解放されました。こうしてイザヤは、主の働きを担う者を神が探し求められた時、直ちに応答します。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と。
実は私たちも神に招かれ遣わされています。第一に「誕生」を通してです。天より神にこの地上に遣わされ、全ての者は命が支えられているからです。第二に「新生」です。心よりイエスを主と信じる時、罪の赦しと救いの確信が与えられます。そして第三に、課題多きこの世に、主が私たちを遣わしておられる使命に励まされ、それぞれの場で「献身」する喜びと力とが泉のように湧き溢れ(ヨハネ4:13-14)るのです。
今日は一月遅れの敬老感謝礼拝です。ある方は、自らに残された時間は限られているので、主の働きをこれから担うのは無理だと思っておられないでしょうか。主は自らの限界(罪や弱さ)を正しく自覚した時にこそ、「誰を遣わすべきか」とイザヤのように問われます。主イエスがサマリアの女性との対話の中で弟子たちに「わたしはあなたがたを遣わす(ヨハネ4:38)」と言われたように、今も語られます。「種を蒔いても刈り入れまで時間がかかるから蒔くのは辞めよう。また自分が種を蒔いたものでないから、刈り取るのは申し訳ない…」と考えるこの私たちに。
しかし主なる神は、地上においても天においても永遠の命という恵みの中で生かされているキリスト者に、信仰のバトンを“託し託される関係”を備え、刈り入れを約束しておられます。共に「労苦の実り」を主が与えられることを信じ、恐れず神の招きに応えましょう。最後の招きとなる主イエスの許へ「帰天」する時、本当の「労苦の実り」を時を越えて共に喜び合えるのですから。