「イエスの語る旧約の福音(36)『聖霊よ、吹き来たれ!』 」友納靖史牧師(2020/02/09)
[聖書]エゼキエル書37章1~10節、ヨハネによる福音書14章15~20節
祭司であり預言者でもあるエゼキエルの使命とは、その名の通り 「神が強めてくださる」ことを、絶望の谷に留まる人々に語りかけることでした。神は民らをどう「強め」ようとされたのか。それが「枯れた骨の復活」物語に明示されます。エルサレム神殿や国も破壊され、バビロン捕囚の悲惨さを経験した人々は、この絶望感がいつまでも続くかのように思い込んでいました。かつて神の裁きがエゼキエルによって預言された時、それを信じなかった人々。彼が次に希望を語った時にも、その実現を信じませんでした。人々は、自分が信じたいように信じる罪に支配されていたからです。そこで神は絶望と悲壮の象徴である「死」、それも肉体は亡び、枯れた骨となってなお、そこに命蘇る驚くべき希望を見せられました。神はエゼキエルに「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と問います。普通なら「それは無理です」と答えるでしょう。しかし、神への深い信仰に立つエゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と返答し、神の御業を彼は目撃していくことになったのです。
神はエゼキエルに「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」。「霊に預言する」とは、とてもおこがましく響きますが、ここには聖書新旧全てに通じる真理が開示されました。霊(ヘブル語:ルーアッハ、ギリシャ語:プニューマ)には、神ご自身を表す聖霊の“霊”と、神が人を創造された時に吹き入れ、人の中に留まっている神の息なる<霊>の、二つがあります。つまりここで神はエゼキエルに、「絶望の中に生きる人々の<霊>に語りかけ(預言す)る時、次に神ご自身が神の“(聖)霊”を人々の中に吹き込む。そうすると、人の霊は強められ、死んだ者さえも生き返ることを知り、信仰が強められる」と語られたのです。
主イエスは十字架の死に向かわれる前、弟子たちに聖霊を送る約束を語られました。十字架の死を目の当たりにするとき、絶望の谷に留まらないよう、弟子たちの信仰を「強める」ため語られたのです。「わたしはあなたがたをみなしごにはしない…、わたしが生きているので、あなたがたも生きる」と。そして主イエスの復活と共に、聖霊降臨(ペンテコステ)の時、そして今も信じる者に聖霊が注がれると約束されたのです。
いつの時代にも絶望に陥らせ、不安を煽る力が満ちています。真理に基づかない架空の希望は語るべきではありません。ですが主なる神を信じるキリスト者の使命とは、神より注がれる希望の御言葉を恐れずに語り続けましょう。分裂と離別、バラバラとなった社会、教会、家庭。そこに今、復活された主イエスの姿を見る時、絶望の谷にさえ、希望の泉が溢れるからです。