「 生まれつきの罪人 」 山下真実牧師(2018/11/18)
「生まれつき○○」という言葉を、私たちはどんな思いをもって用いるでしょうか。そこには「生まれたときから」という単純な意味だけでなく、決して抗うことができず変えることのできない、その命が生まれもった現実について憂い、時にその理由を運命という言葉を用いて目に見えないものに問うてみたり、両親や家系というものに負わせようとしてみたりする、言葉にし難い様々な思いが込められているように感じることがあります。ヨハネ9章に登場する人の現実についても、弟子たちはその理由を当人や両親に見いだそうとしました。しかし、果たしてその人の「生」について責任を負うことができるのは、一体誰なのでしょうか。いや、人ひとりの命の責任を、誰か負うことのできる人がいるのでしょうか。どんなに愛情深い親であっても、子どものその命の行く末を、最後まで見届けることができる保証はどこにもないのですから。私たちの誰にも、それを無責任であると断罪することはできないでしょう。
キリストは「生まれつき目の見えない」その人について、「神の業がこの人に現れるためである」(3節)と言われました。それは、その人の命の責任を、ほかでもない神さまが負ってくださるというメッセージです。キリストによって救われたその人の語った「わたしがそうなのです(エゴー・エイミー)」(9節)という言葉は、「わたしはある」という聖書の神さまの名前と同じ言葉です。私の命を支えてくださる神さまによって、私が私として生きることができる。このことこそ、聖書が語る救いです。「だれも働くことのできない夜」(4節)のような、暗闇にも思える現実の中にこそ、「世の光」(5節, 8章12節)であるキリストの命は輝き、その人を生かすのです。
しかし、人々は今日の場面で、「目の見えない人の回復」(ルカ4章18節)という、あの預言者(イザヤ61章)も語った「福音(よい知らせ)」の訪れを受け入れることができません。そこに私は、自らを「目の見える人」(健常者/普通/救われている)であると言って無意識に奢り、「目の見えない人」(障害者/普通ではない/救われていない)と言って他者と自分を分けようとする、私自身の姿を見いだします。果たして私は「目の見える人」なのでしょうか。私こそ、私を私として受け入れることのできずに、暗闇のただ中にいる「目の見えない人」ではないでしょうか。私を私として受け入れてくださる神さまのもとで、私は私として生きてよいのです。
神が責任を負うと語られる私たちの命について、ここではその「神の業」(3節)「わたし(キリスト)をお遣わしになった方の業」に、「わたしたち」も加わるようにと招かれています(4節)。「シロアム――『遣わされた者』」(7節)とはキリストであり、また私自身である…いや誰よりも、そのように受け入れあって「共に生きる」ことへと私を導いてくれる「あなた」こそ、シロアムであると信じます。