「イエスの語る旧約の福音(34)『嘆き悲しむべきこと』 」友納靖史牧師(2020/01/19)
[聖書]哀歌1章1~4節、ルカによる福音書23章26~29節
エレミヤが「哀歌」を書いたと歴代(35:25)は証言します。この「哀歌」と同一のものか議論は尽きませんが、ここには彼の預言通り、南ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされ、エルサレムが壊滅したことを嘆き悲しむ歌で埋め尽くされます。その目的は、神が悔い改めを呼びかけられたにも関わらず、その声に聴き従わず、自分勝手に歩んだ都エルサレムと王国。それを「彼女」と呼び擬人化しつつ、その死の苦痛を忘れず、末代にまで語り伝えることを願っていたからです。愛する民族と国とが、たとえ不都合であっても真実の歴史に目を背け、犯した罪、過ちを忘却することなく伝え続ける方法として歌にしたのです。
先週インドのナガランド州に行かれた方から一冊の本を受け取りました。それは第二次大戦で「最も悲惨で愚かな戦い」と称されるインパール作戦の記録です。75年前の記憶を持つ人々が少なくなる中、それに危機感を覚えた現地の牧師が、生き残った方々を訪ね歩き、記録した本も近年出版されました。私たちの愛する国・日本は果たして真の歴史を記録し、それを嘆き悲しみ、正しく語り伝えているでしょうか。
主イエスは、十字架を担い死刑場へ向かう途中、その重みに耐えかね、倒れられます。その時、そこにいたキレネ人シモンにローマ兵はその十字架を担わせ、よろめく主イエスと共にゴルゴダの丘へと向かいました。その途中、その主イエスの姿を見て嘆き哀しむエルサレムの女性たちに語られました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と。ここで主は、その後に起きようとしていたエルサレム神殿と都の崩壊の預言をされましたが、エレミヤがかつて哀歌を書き、二度と同じ過ちが繰り返されないように願っていたことが、再現されようとする悲痛な叫びがここに表されます。
私たちは今、この哀歌を読み、南ユダ王国の歴史的過ちとして心に刻むだけでなく、私たち自身、国、教会、そしてキリスト教史にも神の光を注ぎ、悔い改め(方向転換す)が問われます。哀歌の著者が、頭文字をヘブル語アルファベット順にして、節目毎に唱え、記憶し続けられるようにした工夫と信仰に頭が下がります。
昨年11月来日したフランシスコ教皇が広島で、「平和とは単に戦争がないことではなく、絶えず建設されるものです」と語りました。エレミヤは主の御心が「平和の計画であり、将来と希望を与えるもの(29:11)」と知り信じる者として、大胆に神の愛と共に、神の裁きを語り、平和を建設したいと働いた預言者でした。私たちも恐れず謙虚に真の歴史を語り伝え、神の希望の御言葉を分かち合って参りましょう。