「 イエスの語る旧約の福音(2)『神が 生きる者の神 』 」友納靖史牧師(2019/01/27)
江戸時代のキリスト教禁教令を受け、全ての人が氏子(神社)や檀家(寺院)に強制的に紐づけされ、「五人組」「家」制度が今まで根強く日本人に影響を与えていました。いにしえから続く先祖崇拝と融合し、家の墓を守る義務と責任が必要以上に「今ここに生きる者」に大きな負担を与える境遇にある方はおられないでしょうか。主イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と語られ、現代に生きる私たちにも実に大きな希望をもたらします。
サドカイ派は、人は死んだら全てが終わり、神にある復活や永遠のいのちへの希望はないと断言するユダヤ教の宗派でした。イエスの語られた希望の福音に反発する彼らは、イエスを論破することが目的で、次の質問を投じます。それは当時、家の財産を守り、家の跡継ぎを絶やさないことが最優先事項の時代、子どもを残さず長子(兄)が早く亡くなると、その未亡人を弟が世話をする制度(レビラト婚)が確立していました。そこで彼らは主イエスに、「七人兄弟の長男が死に、その妻を迎え入れた弟も次々と死んでいった場合、もし復活があるなら、その女性は誰の妻となるのか?死後、誰か一人の妻とされるなら、他の人に不公平になる。だから『復活』などということはあり得ない」と言い放ちます。正にこれは屁理屈、無理な三段論法的主張でしたが、それに対し主イエスは「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている(マルコ12:24)」と一蹴されました。
ここで主イエスは、モーセに主なる神が、奴隷として苦悩するユダヤの民を救い出す使命を託そうと、燃え尽きることのない柴の木を通し、神ご自身を表された出来事を引用されます。「柴の箇所で、 神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である(出エ3:6)』と…(マルコ12:26)」。まず主イエスは、アブラハムたちの人生で様々な課題や過ちさえも、神はそれぞれに助けと救いを与え、世代を越え「一人一人の主なる神」となってくださる神だと宣言されます。次に、柴を燃やす炎は、自然の営みなら、燃え尽きて消え去るはずです。しかし、人がどう思おうと、「わたしは必ずあなたと共にいる(出エジ3:12)」と神の偉大で聖なる神の力も愛も、そしてその存在が明らかに「ある」ことを思い起させるのです。人間の「死」さえも支配しておられる神の存在を。
今、ここに神に生かされている私たちは、偉大なこの主なる神から託されたこの人生で何を優先して選び取ることを求められているのでしょうか。それは何よりもこの主なる神を信じることです。そして…。
主よ、私たちに、今この時代に苦悩する人々を救い出される神と共に歩み出す力を、モーセのようにお与え下さい。アーメン。