「イエスの語る旧約の福音(26)『神だけが知る”その時”』友納靖史牧師(2019/11/03)
[聖書]コヘレト3篇1~11節、マタイによる福音書24章32~44
「その日、その時は、だれも知らない。…子(主イエス御自身)も知らない。ただ、父だけがご存知である(マタ24:36)」と主イエスは語られました。この「その日、その時」とは、弟子が尋ねた「あなたが来られて世が終わる時には、どんな徴があるのですか(マタ24:4)」のことです。主が語られた「時」には二つの時が含まれていました。昇天後、紀元70年にエルサレム神殿がローマ軍によって壊滅し、イスラエルの民が世界へ離散してしまう時のこと。もう一つの時とは、主がヨエル書3章3節以下を引用された「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり…天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる(マタ24:29)」と、この世界が永遠に続かず、必ず終わりの時が訪れ、主が再び地上に現れる(再臨)、人間の歴史が終わる時のことです。主イエスは決して不安を煽るためではなく、私たちに希望を注ぐため、神の計画を語られました。それが、主を信じる弟子たちには「いちじくの木から教え」を学び、時を予感することが可能であり、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とのみ言葉に言い尽くされます。
全てをご存知のはずの主イエスが「その日、その時は、誰も知らない」とご自身も含め、父なる神の時を知る必要はない、いや知ることはできないと語られたことには少々驚きます。本当にご存知なかったのでしょうか。いいえ、世の終わりの時を知りたがる私たちが、その日を探り、勝手な解釈をして恐れと不安に陥れないため、御自身さえも知らない。だから知る必要はないと、人間イエスとして、あえて私たちに示された深い配慮です。主イエスがこの書を引用された箇所は一度も福音書にはありません。ですが「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない(コヘレ3:11b)」との信仰が今日のマタイの箇所に滲み出しています。
何よりも神が人となられ、この地上を歩まれた主御自身が「神のなされることは皆その時にかなって美しい(口語訳3:11a)」と信じておられたことは事実です。だからこそ、主は地上で神に与えられた宣教使命に恐れず立ち向かい、十字架への苦しみの道を通られ、かつ復活の希望の中でその生涯を歩まれたのです。その姿は、「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある(3:1)」と信仰と重なります。
父なる神は、人生すべての時を主に委ね、「永遠を思う心」を私たちに注がれています。その人の「思う心」から「信仰心」へと変えられ、主イエスこそ、この世界が誕生する前に存在され(ヨハ福1:1-3)、二千年前に人となって地上に生まれ(初臨)、更に再びこの世に帰られて世の悪を裁き(再臨)、神の義と平和を完成される「その時」を信じ待ち望みましょう。何より「今」、この教会(私たち)に託された命と使命を惜しまず用いさせてくださいと祈りつつ。