「 イエスの語る旧約の福音(3)『神にできないこととは?』 」 友納靖史牧師(2019/02/03)
主なる神は、アダムとエバ(創2:9)、カイン(創4:9)以来、常に「対話」を大切にされるお方です。「富める青年」との対話において主イエスも、彼の抱える誤った神理解と信仰姿勢に気づかせようとされます。
この青年は純粋に主に教えを請いたいと近寄り質問したのではなく、完璧な人生を歩んでいると信じこんでいた彼を承認して欲しかったのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねました。「永遠の命」は本来、神から与えられ「授かる」もので、人間の努力により「得る」ものではありません。まず彼の心にズレを感じた主は敢て問います。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか」と。それは唯一、神にしか与えられない『救い』を与える存在としてイエスを信頼し、尋ねたのかを問うためでした。しかし彼はその問いかけには答えず、主が語られた「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」との言葉に反応します。なぜなら彼は律法全てを完璧に守っている自分は「善い」者だとの自負心を持っていたからです。ここで主が提示された「掟」とは「十戒」の後半部分でした。大切な戒めであると分かっていながら、アダムの子孫である私たち人間は一人残らず掟を完全には守れない弱き罪人だと旧約の歴史が実証してきました。ですから父なる神は、御子イエスを救い主としてこの世に遣わされたのです。けれども、そのお方を前に、この青年は「そういうことはみな(幼い頃から全て)守ってきました」と胸を張って返答したのです。そこで主イエスは、彼が特に目を背けてきた掟、「隣人を自分のように愛する(レビ19:18)」ことに触れ、彼の財産(彼の拠り所)を施し、天に宝を積むという彼の目には最大級の愛の行為を実践することを勧め、揺さぶりをかけられたのです。それまでの対話の中でも、「主よ、私にはできません(分かりません)」と正直に自分の弱さを認めるチャンスが与えられていました。ですが遂に彼は、主の真意を理解せず、去っていったのです。主イエスがその彼を弟子たちと共に歩み続ける決断をされた愛の招きの言葉…「わたしに従いなさい」…に気づくことなく…。
主なる神は全ての人に救いを与えることを望んでおられます。ですから神は歴史の中でたゆまず人間と対話を求め、関わり続けてくださっておられます。神にできないこととは…、私たち人間が真の救い(永遠の命)を授かることを諦めることです(ペトロ二3:8-9)。私たちも日々、聖書を読み、また隣人と共に人生の課題に対峙して、主なる神との対話を深めましょう。こうして「神には何でもできる」との信頼(信仰)が育まれ、永遠の命が授けられる喜びを多くの人々と分かち合う者へとされるのですから。