「 コイノニアー隣人と共にある平安 」友納靖史牧師(2018/11/11)
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(133:1)。詩編で歌われるこの歌に「コイノニア」の意味が凝縮されます。神の人間に対するご計画「シャローム」を日本語では、私たちの内面に与えられる“平安”と、私と隣人との社会性を“平和”と訳し分けます。ギリシャ語「コイノニア」は神と人、人と人との関係性『交わり』を語り、ヘブライ語「シャローム」は人のみならず、神のもとにある全ての被造物との平和的関係性を意味するより広く世界全体を包括する言葉として用いられます。
インド最西端で山岳地地帯に位置するナガランドは、かつて首狩り族として恐れられたナガ族が住んでいます。1872年、最初のバプテストの宣教師が入って以来、この地域は人口の90%(バプテスト70%)がクリスチャンとなりました。元来、農作業などで伝統的民謡を常に歌う民族でしたから、福音と出会い神を賛美・礼拝する喜びが深く生活に浸透し、今も平和な共助社会を保ち続ける生き方が近年注目されています。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかる<コイノニア>ことではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかる<コイノニア>ことではないか…(コリ一10:16)」と、イエスが弟子たちに定められた「主の晩餐」の交わりは、キリストの犠牲と愛を中心とし、課題多き私たちが和解と一致へと導かれる、コイノニアの極みであると使徒パウロは語りました。もし、このキリストを中心とした真の交わりがなされるなら、共同体の人数に関わらず、天の国で生きる先取りの喜びを体験するのです。
人類全ての総決算を迎える日を語る主イエスの説話に、飢えに苦しみ、渇きを覚え、泊まる場所も、着る服もなく、病に苦しみ、牢獄の孤独に置かれた人々を深く憐れむ主の愛が湧き溢れています(マタイ25:31-40)。主の語りかけは、律法倫理規範の命令とは違います。様々な苦しみや必要を覚える隣人に寄り添う時、後になって、その人たちへの関わりが、実は主イエスご自身にしたこと同然だ…と主が感謝を表されるのです。この聖書個所に「コイノニア」が意味する本来の信仰的原点が証しされています。主イエスのためにと、自らの意志で報いを望むことなく、様々な課題を乗り越えて隣人へ関わることを主イエスが望んでおられるからです。イエスご自身が兄弟と呼ぶ、最も小さい<極小の>者(社会で忘れ去られる人々)と共に生きる時、トルストイの作品名に、コイノニアの神髄が的確に表されていると知るのです。「愛あるところに神います」(副題:『靴屋のマルチン』)。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟である
この最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたのである」(マタ25:40)。