「 真の光、罪のきよめ」渡部信牧師(2019/06/02)
[聖書]ヨハネの手紙一 1章5~10節
ローマ書には「信じたことのない方をどうして呼び求めることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくてどうして聞くことができるでしょう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう。なんと美しいことか。良い知らせを伝える者の足は。・・・それゆえ、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって起こるのです。」とあります。神の救いは遣わされた者の口から、そして信仰はキリストの言葉を聞くことによって起こるのです。それではキリストの言葉を聞くとはどういうことでしょうか。それは聖書に記されたキリストの言葉を聞くことから始まるのです。自分の信仰についての考えを述べることではありません。それでは神は私たちに何を語られたのでしょうか。
ヨハネ福音書1章には、私は世の光である。「その光はまことの光であって、世に来て全ての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えられた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
日本の天皇は、その血筋を引いた子孫が代々、天皇として引き継がれて来ました。しかし、世の光であるこの方を受け入れ者は、血筋によらず、肉の欲、人の欲によらず、新しく神によって生まれることによって神の子となる資格が与えられると言うのです。
それでは世の光となられた方は一体どのような方なのでしょうか。
言は肉体となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見たものはいない。父のふところにいる独り子なる神、この方が神を示されたのである。
この方とは恵みと真理に満ちていた父のふところにおられた独り子なる神、イエス・キリストを通して現された神だと、聖書は宣べております。現在の日本は、先の戦争が終わり70年、80年と経ち、戦争のない平和な時代を過ごして来ました。けれども世界の政治は時と共に川の流れのように絶えず変化しながら流れています。また社会の人々の考えも刻々と変化しています。経済的に良くなっているようで悪くなっているのではないかという心配があります。学校ではいじめの問題、親族間では争い、憎しみ、また異なる人々を差別したりします。もし、このように人々と人々の間に信頼が損なわれるなら、国民全体のよりたつ精神的支柱が無くなり、再びもう一度、混迷の時代を迎えることになるでしょう。その時には国全体の軌道修正は難しくなり、何をすれば、どうすれば、希望ある人生と、確かな将来が失われてしまうのです。