「イエスの語る旧約の福音(10)『キリスト:油注がれたお方』」 友納靖史牧師(2019/04/14)
「キリスト」とは、ヘブライ語のメシア(救い主)のこと、ギリシャ語では「油注がれた者」を意味します。私たちが「イエス・キリスト」と口にする時、それは即ち「イエスはキリスト(救い主)です」と信仰告白をすることです。
旧約時代、神の前に聖別され、特別な務め(祭司・預言者・王)を託される際、オリーブの香油が頭に注がれました。サムエル記上には、神の道より外れたサウル王の後継者を選ぶため、預言者サムエルは神よりエッサイと会うことを命じられ、「なすべきことは、そのときわたしが告げる(16:3)」と語られます。最初サムエルは長男エリアブに目を留め、彼こそがその人だと思いました。ところが「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間がみるようには(神は)見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(16:7)」と主はサムエルに語られたのです。こうして神は兄六人の中からは選ばず、羊の番をしていた末の子ダビデが一人残りました。彼がサムエルの前に連れてこられた時、主なる神は「立って彼に油を注ぎなさい。それがその人だ(16:12)」と語られ、最年少のダビデにサムエルは油を注いだのです。こうして「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになり16:13)」、神に従う王となる備えをしていきました。神の選びには神御自身の基準があり、主の霊が共におられ導かれると示されたのです。
新約では、イエスがバプテスマを受け祈られた時、天が開け聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきたこと(ルカ3:21-22)が救い主とされた公生涯の始まりです。更に主イエスが故郷ナザレの会堂にてイザヤ書(61:1~)を朗読された時、「主の霊がわたしの上におられる。…主がわたしに油を注がれたからである…(ルカ4:18-19)」と、ご自身こそがこの御言葉の成就であると力強く宣言し、人々の心を揺さぶりました。そして十字架の死に至るまで主の霊に満たされ歩み続けます。
今日、「聖霊の油が注がれる」とは、イエスをキリストと信じること(コリ一12:3)に始まり、真理を悟る喜びを体験する(ヨハネ16:13)ことです。更に使徒パウロは日々の生活と奉仕で「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という霊の実(ガラ5:22)が与えられることが、主の霊の導きに従って歩む証しだと語ります。聖霊の油を注がれた主イエスは地上の生涯で、苦悩と思い煩いの全てを、「祈り」を通して注ぎ出し、天の父より聖霊の力注がれ、導かれ歩まれました。こうして、権力や能力に頼る人生から解放され(ゼカ4:6)、「主の恵み」に生かされて歩む道を開かれました。主イエスは約束されます。
「だれでも求める者は受け…天の父は求める
者に聖霊を与えてくださる(ルカ11:9-13)」と。
アーメン。主イエスよ、お与えください。